「水素吸入は怪しいのでは」。そう感じる理由はあります。さまざまな病気に効くような宣伝がある一方、研究で使ったガスの濃度や対象患者と、市販機器の条件が違うことはあまり説明されません。
ただ、水素を扱う基礎研究や臨床試験が実際にあることも事実です。このページでは、広告への疑問と研究そのものを分け、水素吸入で分かっていること、まだ分からないこと、当研究所が検討する際に何を記録するかを説明します。機器と吸入の全体像は水素に関する案内をご覧ください。
医療者や患者さんが疑問を持つ理由
「水素」と書かれた商品は、飲む水から吸入機器までさまざまです。「体験した人が改善した」「論文がある」と聞いても、どの疾患で、誰と比較し、何を改善と判定したかが分からなければ、治療効果は判断できません。症状は日によって変わり、同時に使った薬やリハビリ、期待による体感の変化もあります。
水素は自然界にある分子なので、研究対象としての可能性を否定する必要はありません。それでも「安全そうだから何にでも効く」「研究があるから治療として確立した」という飛躍は避けるべきです。医療者が慎重なのは、患者さんに必要な標準治療、呼吸管理や栄養管理を遅らせないためでもあります。
対象疾患と比較対象、評価項目、研究の規模、吸入条件、利益相反が示されていますか。「研究されている」と「効果が示された」の間にも、「その疾患の診療で使える」との間にも、確認すべき段階があります。
水素の「量」は一つの数字では決まらない
分子状水素(H₂)は、飲用では水に溶けた形、吸入では空気や酸素と混ざったガスとして体に入ります。吸入でも機器の純水素発生量(mL/分)と、鼻先やマスクで実際に吸う混合ガス中の濃度(%)は別です。流れ出た全ガス量がそのまま純水素量を表すわけでもありません。口呼吸、鼻カニューラの装着状態、呼吸量、機器からの漏れによって実際の曝露は変わります。
| 方法 | 比較するときに見る条件 |
|---|---|
| 水素水 | 飲む時点の溶存水素濃度と量、保存方法。吸入研究の結果をそのまま当てはめない。 |
| 水素吸入器 | 純水素の発生量、鼻先での濃度、時間、頻度、送気方式、機器の安全設計。 |
| 水素と酸素の混合ガス | 水素と酸素それぞれの濃度、医療用ガスの管理、対象疾患。HYBRID IIは2%水素添加酸素を使った。 |
| 水素・酸素の電解混合ガス(HHOなど) | 純水素量と酸素量、最終濃度、逆火防止、火気管理。純水素の吸入と同一条件とはみなさない。 |
当研究所は純水素発生量250 mL/分以上を研究条件を参照する際の下限の目安とし、実際の導入では300 mL/分以上を推奨しています。250 mL/分の純水素を鼻カニューラから吸入させた研究では、ミニブタ3頭の動脈血に水素が取り込まれることが測定されました。またヒトを対象とした研究でも250 mL/分が使用されています。ただし、前者は動物の血中移行、後者は別の疾患・条件での研究に用いた設定を示すもので、250 mL/分がALSに効く「医学的な最低有効量」と証明した試験ではありません。300 mL/分以上という推奨も、十分な発生量を確保し継続して記録するための当研究所の運用判断であり、300 mL/分未満では効かないという線引きではありません。鼻先の実測濃度や呼吸条件を確認せず、出力を増やせば効果も比例すると考えることはできません。[6][7]基準の考え方は高流量を検討する理由、製品表示の見方は家庭用機器の確認点で説明しています。
なぜ分子状水素が研究されているのか
H₂は小さく拡散しやすい分子です。2007年にOhsawaらが発表した細胞・動物などの研究は、酸化ストレスに関係する反応性分子と水素の関係を調べる出発点の一つになりました。以後、炎症のシグナルや細胞内の防御応答、ミトコンドリアの働きとの関係も研究されています。[1]
ここでいう酸化ストレスは、活性酸素などによる負担と、それに対処する体の仕組みとのバランスが崩れた状態です。神経疾患などでも注目されますが、疾患ごとに関わり方が違います。水素が小さいという物理的性質だけで脳の病変を改善することは示せませんし、単一の「選択的な抗酸化作用」だけで人に起こるすべての作用を説明できる段階でもありません。
ヒトの研究はある。病名と結果を分けて読む
水素研究には、細胞や動物の実験、患者さんの症例報告、小規模な比較試験、ランダム化比較試験があります。2023年のレビューは複数の領域の臨床研究を整理していますが、さまざまな病気の研究数を足し合わせても、ALSや筋ジストロフィーの治療効果の証拠にはなりません。[2]
| 資料の種類 | 読み取れること | まだ言えないこと |
|---|---|---|
| 細胞・動物の研究 | 働く可能性のある経路や条件。 | 患者さんで症状・進行が改善するか。 |
| 症例・施術記録 | 何がいつ変化したか。次の研究の問い。 | 水素単独による変化か、自然変動・併用治療の影響か。 |
| 対照群のある臨床試験 | その対象と条件で、あらかじめ決めた評価項目に差が出たか。 | 別の疾患、別の機器や濃度で同じ結果が出るか。 |
結果を見る際は、最初から決めていた主要評価項目と、追加で調べた副次評価項目を区別します。試験を途中で止めた理由、対象人数、結果の幅、資金提供も一緒に確認します。臨床研究の読み方はこちらの解説にもまとめています。
慶應義塾大学病院も関わった水素吸入の臨床試験
慶應義塾大学病院が先進医療Bの申請医療機関となり、日本の15施設で実施されたHYBRID IIは、院外心停止後の患者に対する水素吸入の二重盲検・ランダム化比較試験です。水素吸入が大学病院を含む医療研究の場で実際に試された事実は、「研究そのものが存在しない」とする見方への具体的な反証になります。院外で心停止し、心拍再開後も昏睡状態の成人を対象に、通常治療に加えて2%水素添加酸素を18時間吸入する群と、酸素のみの群を比べました。73人が割り付けられ、COVID-19流行による登録制限で予定より早く終了しています。[3][9]
| 評価項目 | 報告された結果 | 読み方 |
|---|---|---|
| 主要評価:90日後の良好な神経学的転帰 | 水素群22/39人(56%)、対照群13/34人(39%)。P=0.15。 | 水素群で数値は高いが、この試験では統計学的に有意な差を確認できなかった。 |
| 副次評価:90日生存 | 水素群33/39人(85%)、対照群20/33人(61%)。P=0.02。 | 差が報告された。主要評価の結果と区別し、少数例・早期終了も踏まえて読む。 |
この研究は先進医療Bとして行われましたが、COVID-19下で予定の360人に対し73人で登録を止め、2022年にその先進医療の届出は取り下げられています。これは試験結果による「効果なし」の判定を意味しません。一方、先進医療Bとして現在も受けられるという意味でもありません。慶應義塾大学は、その後も水素ガス・供給装置の薬事承認を目指す研究開発を続ける方針を公表しています。[10]したがって、現に医療現場で研究目的の吸入が行われたことと、一般の患者が保険診療として使える承認治療になったことは分ける必要があります。[5]この結果は、水素の臨床研究を続ける理由になります。一方、主要評価項目で有意差が得られた試験ではありません。心停止後の急性期に管理された酸素と一緒に吸入した結果を、家庭用の機器や慢性の神経難病に直接置き換えることもできません。資金は企業から提供されています。これらを含めて伝える方が、研究の価値と限界を正しく評価できます。[3]
ラジカットの代わりに使えるのか
ラジカット(一般名エダラボン)はALSで使われる承認薬で、フリーラジカルに関わる経路への介入という点では水素吸入との比較が生まれます。水素は点滴薬とは投与方法や分子の動きが違い、反復して吸入する選択肢として検討されてきました。ALSと酸化ストレス、ラジカットとの関係では、作用の重なりと分布・時間の違いを詳しく説明しています。
「ラジカットの代わりとして水素を使った例がある」との話と、「同等のALS治療として代替できる」は別の主張です。今回確認できた慶應義塾大学の試験はALS患者を対象とせず、ラジカットとの直接比較も薬剤の置換もしていません。ALSに対する水素吸入の患者1人の症例報告はありますが、それも代替療法の有効性を比較証明するものではありません。特定の施設でラジカットを中止して水素に切り替えたという一次記録は確認できていないため、大学病院がALS治療として置き換えたとは書きません。[8]
エダラボンを使いにくい事情がある人が水素を追加・選択したとしても、理由、医師の判断、併用療法、経過を確かめなければ効果は判断できません。現実の選択肢として相談する余地を示すことと、薬を自己判断でやめてよいと勧めることは異なります。
なぜ確かな答えがまだ出ていないのか
吸入と飲用、濃度、時間、装置、対象疾患、評価方法が研究ごとに異なります。希少疾患では対象者の確保や長期追跡も難しく、大規模な試験には資金が必要です。これらは研究を進めるうえでの課題です。一方、資金や特許の問題があり得ることを理由に、効果が既にあるはずだと結論づけることもできません。十分に検証して効果が小さい、あるいはないという可能性も残ります。
盲検化が難しいと考えられる装置や運用はありますが、HYBRID IIのように管理したガスで二重盲検を実施した例もあります。試験の設計と結果を個別に評価する必要があります。難病の患者さんには研究が出るまで待てない時間があるからこそ、希望につながる仮説は明示しつつ、効果の程度や費用を事実として見せないことが大切です。
当研究所で試す場合の考え方
当研究所では、酸化ストレスや炎症の研究を踏まえ、水素吸入を補助的な介入候補として検討します。純水素の発生量、機器と使用方法、吸入時間、頻度を明示し、症状の変化を記録します。250 mL/分以上を研究上の参照点とし、当研究所では300 mL/分以上の純水素発生量を推奨します。ただし、ALSや筋ジストロフィーでこの値を最低有効量と確認した臨床試験はありません。病気を治すという説明や、服薬をやめる提案はしません。
「疲労が軽い」「よく眠れる」といった本人の体感は生活上の大切な情報です。ただし、その一回の変化だけで病気の進行が止まったとは判断できません。自分の中で条件を揃えた記録でも併用治療や自然変動を完全には除けませんが、続ける価値や負担を本人と話し合う助けになります。
| 記録 | 具体例 |
|---|---|
| 条件 | 機器名、純水素発生量と濃度表示、鼻カニューラ等、開始・終了時刻、回数。 |
| もともとの状態 | 吸入前からの疲労、睡眠、活動量、呼吸管理、服薬や施術の変更。 |
| 変化と負担 | 午前・午後の疲れ、起床時の状態、歩行や日常動作、頭痛・不快感、費用や時間。 |
前後だけでなく、吸入開始前の記録と同じ項目を継続して比べます。呼吸機能や筋力の改善を調べるには、主治医と相談して信頼できる評価方法や測定条件を揃える必要があります。ALSと酸化ストレス、水素の位置づけも参照してください。
可燃性ガスであることを忘れない
水素は可燃性のガスです。装置のガス濃度や安全装置、換気、火気・喫煙との距離、漏れや逆火への対策を確認してください。酸素吸入、NPPV、人工呼吸器を使っている人は、接続や併用を自己判断で変更しないでください。鼻カニューラの不快感、乾燥、息苦しさなどがあれば使用を止め、医療者や装置の提供元へ相談します。安全性と運用基準
水素を試すことによって、薬、呼吸管理、栄養、リハビリ、定期的な診察を中断しないことが前提です。医療機関での治療や病状の変化を担当者と共有して、安全と目的を確認します。
よくある疑問
研究があるなら、効果が証明されたのでは?
研究が何を対象にし、何と比較し、どの結果を得たかで答えが変わります。HYBRID IIは心停止後の研究で、ALSなどの治療効果は検証していません。
250 mL/分が医学的な最低量で、300 mL/分以上なら効きますか?
250 mL/分は研究に用いられた具体的な流量で、医療上の最低有効量として証明された値ではありません。当研究所の300 mL/分以上という推奨は運用上の設定です。表示が純水素の発生量なのか、酸素を含む総送気量なのかも確認してください。
低流量の機器では意味がありませんか?
そのようには言えません。異なる流量の機器を同じ疾患・方法で十分に比較したデータがなければ、効く・効かないの境界を断言できません。一方で、総ガス量と純水素量が曖昧なまま「同じ効果」と扱うこともできません。
手応えがあったら続けてよいですか?
目的、安全性、費用、同時に変えた治療や生活習慣を一緒に確認してください。症状が良く感じられることと、神経細胞の変性や病気の進行が改善したことは同義ではありません。
用語の意味を解説
- 主要評価項目
- 試験を始める前に中心の結果として決めておく指標。研究結果の解釈で優先されます。
- 副次評価項目
- 主要評価項目に加えて調べる指標。興味深い差が出ても、試験全体の結論として過大に読まない注意が必要です。
- 二重盲検
- 参加者と評価側の双方が、誰にどちらの介入をしたか分からないようにする方法。
- 純水素発生量
- 装置が単位時間に発生させるH₂の量。鼻先で実際に吸うガスの濃度や体内への取り込み量とは異なります。
参考資料
- Ohsawa I, et al. Hydrogen acts as a therapeutic antioxidant by selectively reducing cytotoxic oxygen radicals. Nature Medicine. 2007.
- Johnsen HM, et al. Molecular Hydrogen Therapy—A Review on Clinical Studies and Outcomes. Molecules. 2023. 様々な対象・投与条件の研究を概観した総説。
- Tamura T, et al. HYBRID II: a multi-centre, randomised, double-blind trial. eClinicalMedicine. 2023. 心停止後患者の主要・副次評価項目を参照。
- U.S. Department of Energy. Hydrogen Safety Fact Sheet.
- 慶應義塾大学:水素ガス治療開発センター(2025年度)。薬事承認に向けた研究計画。
- Sano M, et al. Low-Flow Nasal Cannula Hydrogen Therapy. J Clin Med Res. 2020. ミニブタ3頭、純水素250 mL/分の血中移行。
- Johnsen HM, et al. Molecular Hydrogen Therapy—A Review on Clinical Studies and Outcomes. Molecules. 2023. ヒトで250 mL/分を用いた研究も紹介。
- Ichikawa Y, et al. Hydrogen inhalation therapy may ameliorate amyotrophic lateral sclerosis. Med Gas Res. 2024. ALS患者1人の症例報告。
- 厚生労働省:水素ガス吸入療法の先進医療B実施計画。慶應義塾大学病院が申請医療機関、対象は心停止後症候群。
- 厚生労働省:先進医療Bの試験終了に伴う取下げ(2022年)。登録困難による試験終了を説明。
本ページは水素に関する研究と運用条件を説明する資料です。特定の疾患の治療・治癒を保証するものではありません。診断、治療、呼吸機器との併用は担当医療チームに相談してください。
